ふと、言葉の置き場で迷うことがある。
「目標」と「目的」
似ているようでいて、その力学は全く逆のベクトルを持っているのではないか、という気づきについて・・・
例えば、スポーツチームが掲げる「優勝」ー
一般的には、これが「目標」とされる。目に見える旗印であり、到達すべき具体的な地点だ。この場合、選手一人一人が抱くべきは「なぜ優勝したいのか」という、自分だけの「目的(意義)」になる。
優勝という目標(外側の成果)に向けて、個人の目的(内側の動機)を明確にする。
これが、組織を熱く駆動させるオーソドックスな形だと思う。
教育の現場で起きる「逆転」
ところが、これが中高生のクラスにおける「ドラマケーション(演劇的手法を用いたコミュニケーション教育)」となると、この構造がふわりと逆転する。
ここで目指すべき本質は、「コミュニケーション能力の醸成」だ。
しかし、これは「優勝」のように数値化したり、いつ達成したかを確認したりできるものではない。いわば終わりのない旅のようなものだ。だからこそ、ここでは「コミュニケーション」を「目的」という上位の北極星に置くのがしっくりくる。
そうすると、その下に来る「目標」は、途端に具体的で手触りのあるものに変わる。
- 「普段あまり話さない人と、一つの時間を共有する」
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「正解のない遊びの中で、他者との協働を楽しむ」
これらは、今日という一日でクリアできる、目に見える「目標(ミッション)」だ。
「スキル」ではなく「体感」を置く理由
ここで重要なのは、ドラマケーションにおいて「目標」は、決してスキルの訓練(例えば、目を何秒見よう、沈黙を何秒耐えようといった形式的なもの)であってはならないということだ。
具体的な指示をあえて削ぎ落とし、遊びの中にそれらを内包させる。すると不思議なことが起こる。無理に目を合わせようとするのではなく、ふと目線を逃した瞬間に、かえって相手の存在を近くに感じ、真に向き合えた……そんな瞬間が生まれることがある。
「型」を習得するのではなく、遊びを通じて「心が動く瞬間」を体感すること。その積み重ねこそが、結果としてコミュニケーション能力を育んでいく。
スポーツのような「成果」を求める場では、具体的なゴール(目標)が人を引っ張る。 一方で、ドラマケーションのような「変容」を求める場では、大きな意義(目的)が全体を包み込み、遊びという小さなステップ(目標)が人を動かす。
私たちが今、どちらの言葉を上に置くべきか
「目標を明確にしろ」と言われて動けなくなる時、もしかしたら私たちは、目に見えないはずの「成長」や「幸福」を、無理やり数値化可能な「訓練」の箱に押し込もうとしているのかもしれない。
ドラマケーションの現場で、生徒たちが「今日はこの遊びを楽しもう」と目の前の他者と関わり、いつの間にか「目的」であるコミュニケーションの深まりに辿り着いている。そのプロセスを眺めていると、言葉の配置を変えるだけで、人の心の動線はこれほどまでにスムーズになるのかと驚かされる。
「優勝」を目指す強さと、「関係性」を育むしなやかさー
その間にある「目的」と「目標」のスイッチを、私たちはもっと自覚的に入れ替えてもいいのかもしれない。
